やーちゃんばーちゃんの石ころ人生 第3章「やあちゃんばあちゃんの石ころ人生」第三章 ひいばあちゃん存命の頃から、妹は私を、よく旅行に誘ってくれました。毎日の生活がたいへんだから、気分転換をさせてやろうとの心遣いだったのだろうと思います。 もちろん私には蓄えなどありませんから、妹が全額払ってくれての旅行でした。おまけにお小遣いまで出してくれて・・・。 北は最北端の北海道稚内から、南は沖縄まで・・・。高いところなら黒部。我が家の経済なら一度だって行く事の出来ない旅行に連れて行ってくれました。ほんとに嬉しい。感謝。忘れられない思い出です。妹に心から感謝!!!。 ひいばあちゃんにも感謝。旅行に行く時はいつもショートステイをお願いしていて、ひいばあちゃんに「お泊まりしとってね」と言うと「早よ帰ってえなあ」と寂しそうでした。 ・・・が、旅行から帰って迎えに行くと、施設の職員さんとすっかり仲良くなっていて、「また来るけえなあ」なんて手を振っていましたよ。 北海道では、最北端と言われた稚内の海に向かってオカリナを吹きました。曲はもちろん〝主よ御許に近づかん“です。 そうだ、北海道に行く時に、トワイライトエクスプレスに乗りましたよ。豪華な列車で個室で夢のような雰囲気でした。そんなトワイライトエクスプレスの豪華な雰囲気と、妹との楽しいおしゃべりに夢中になっていて、札幌で降りるところを気がつかずに通り越してしまいました。そんなへまなことやっちゃって・・・あとあとまでの笑い話・・・。 ※令和2年 10月9日 FB ブログでアップ済み 沖縄に行った時は素晴らしい経験をしました。飛行機で雲の上を飛んで、雲海を下に見ました。(雲海は下に見るもんだけど)素晴らしかったのはその雲の中に太陽が沈んで行くのを見たのです。自分の位置より下に夕日が沈むんですよ。それはそれは美しく、雲を上から染めて、下に沈んで行く・・・。あの風景は一生忘れられない・・・。「これなら沖縄はいい天気だね」と言ったけど、空港に降りたら雨でした。考えてみたら太陽はいつも雲の上でした。 黒部も素晴らしかった。大きなダムの上から下を見たら、虹が下にかかっていた。きれいだったけど足が震えた。ダムの脇に大きな碑があって、このダムを作るために犠牲になった人たちの名前が沢山並んでいました。こんなに沢山の人の犠牲のもとに作られたんだと思って胸を突かれる思いがしました。 その他には、箱根、冨士のツアー。それが元旦だったので東京の街中、ビルの真ん中をバスで通って行ったんだけど、お正月は東京のビル街は、がら空きでしたよ。箱根を通った時には、かの有名な箱根駅伝の前日だったので、駅伝の準備などで、あちらこちら、カメラなどが設置されていました。それから冨士山、きれいな逆さ富士を見たもんね。天気が良くて波が立っていなくて「地元の人でもめったに見れないきれいな逆さ富士だ」って、案内の運転手さんが言っていました。良い保養をさせてもらいました。 倉敷は嬉しかったですねえ。大原美術館、絵の好きな私は教科書でしか見られない世界の名画を目の前で見て、これは感動!!!。ゴッホ、ユトリロ、ゴーギャン、ルーベンス、ドガ、ルノアール、エルグレコ。色々、色々・・・。モネの「睡蓮」があのサイズだとは知らなかった。嬉しい旅行だった。 旅行だけではありません。妹にはほんとにお世話になりました。困った時はすぐに助けてくれました。ほんとにほんとに色々で・・・。書くとすればきりがないぐらい・・・。でも、少―しだけ書いておきます。 我が家が出版した「ひいちゃんにっき」の本、世に出すためにはけっこうな額の費用が必要だったのですが、これも妹が全額出してくれたんです。妹の助けがなければ、出版は実現できなかったでしょう。 私の子孫たちよ、この恩を忘れてはいけないよ。ああ、あの時、産まれたばかりの妹を踏まなくてよかった! ※令和2年 11月19日 FB ブログでアップ済み 私たち家族を助けて下さった方は他にも沢山おられます。一家の柱である昌樹が病気で働けなくなって三人の子供たちも中学生、高校生で、お金が大変な時、ほんとにどうしようかと毎日毎日苦しいやりくりをしていて、それでも借金だけはすまいと頑張っていたけど、どうにもならなくて、市役所の生活保護課に行きました。色々話を聞かれて、本当にもうお手上げだと分かって下さり、「申請の手続きを進めましょう」と言っていただいて家に帰りました。 生活保護を受けるには手放さなければならないものがいくつかありますので、覚悟を決めてそれらの事を進めていました。生命保険も全部解約しました。生命保険は財産とみなされるのです。財産があるうちは生活保護は受けられないのです。 そんな時です。ある方から突然お金が送られてきました。 「ボーナスが出ましたので、河上さんに送ります。私はそんなにお金は必要ないから、あなたが使って下さい」って・・・。 その方が言われるにはですね、 「神様がね『河上さんに送りなさい』とおっしゃったんですよ。だから遠慮しないで受け取って下さい。」・・・って。こんなの初めて・・・。赤の他人ですよ。東京の人でYさんと言う女性の方です。今までに三回しか会った事のない人です。あとはず――っと文通だけのお付き合い。おまけにこの方 「これから毎月五万円づつ送金します」と言われて本当に毎月五万円づつ送られてきました。それから二年ぐらい毎月送られてきました。 他にもお金を送って下さった方があります。 「息子がお小遣いにと五万円くれたから、分けっこしましょう」と三万円送って下さった信仰の友や、 「定年退職しましたから、退職金の内の少しですが、使って下さい」とか。他にもお米一五キロとか、玄米三十キロとかの差し入れもありました。 言っておきますが、私はどんなに困っても、人に「お金下さい」とか、「貸して下さい」とか言った事はありませんよ。(生活保護課には行きましたが)お願いをするのは神様にだけです。いつも神様に 「神様お願い、助けて下さい」とお願いしていました。ここで間違ってはいけない事は、怠けていたり、贅沢をしたり、我がままをしていて、自分勝手なお願いをしてもそれは駄目ですよ。一生懸命働いたり、事情があって働けないとしても、真面目に、質素に、誠実に生きなくてはいけません。神様はそれを見ていらっしゃるんだと、私は思います。 ※令和2年 12月28日 FB ブログでアップ済み 生活保護の事ですが、結局は受けなくて済みました。この後に書きますが、昌樹の嫁さんが、発達障害と分かって、それもバリバリのADDと診察されて、障害年金が下りることになりました。だから、生活保護課へ行って保護をお断りしました。それに、毎月五万円送金して下さったYさんにも感謝して、送金を止めていただきました。ほんとに何回も言いますが、赤の他人に何年も送金する人っていますか?。何度でも言いますが、私の子孫たちよ、決して恩を忘れてはいけないよ。 昌樹の嫁さんの障害年金はほんとに助かりました。そのおかげで三人の孫たちを育てる事が出来ました。何しろ中学、高校ともなると、ものすごいお金が必要になりますからね。そんな中なのに、昌樹は病気になって失業するし、全くのお手上げの状態だったのです。愛ある方々の助けで何とか暮らしていましたが、申し訳ないし、焦っていました。そんな中での嫁さんの障害年金でしたからね。嫁さんが病院でバリバリのADDと診断された時までに坂登って一括で年金が降りて、そのお陰で生活が出来、孫たちも育てられました。「神様――、有難うございます――」でした。 その一括年金が底をつく頃には、孫たちも一人、また一人と、成人し、自立していきました。神様は障害さえも逆手にとって、私たち家族を養って下さったのですね。そして、昌樹にも障害者年金が降りるようになり、その上、昌樹の体調に合わせて働く事のできる職場も与えられて、何とか生活しております。 さかのぼりますが、ひいばあちゃんが亡くなった頃からの、我が家の実態は、ほんとに右往左往の大変な生活でした。それ以前から体調がすぐれなかった昌樹がそれまでの職場を辞めたので、経済的にも、精神的にも辛くなって、うつ病もひどくなってきました。 子どもたちも幼児期から少年少女期に入り、家族もそれぞれ問題を抱えるようになり、親としても辛いところとなって来たのでした。 ※令和3年 2月22日 FB ブログでアップ済み ここで、家族がどんな問題を抱えて行ったのかを書いておきましょう。 まず家族構成を・・・。私の長男昌樹。その妻。その子どもたち、つまり私の孫たち三人、雪、(女の子)光(男の子)、祈(女の子)。それに私、(やあちゃんばあちゃん)。六人家族です。 その六人のうちまず光から書きましょう。光はひいちゃんと呼ばれていましたが、そのひいちゃんは2歳9ヶ月の時、発達障害のADHD(注意欠如・多動症)、6歳半の時、ASD(自閉スペクトラム症)と診断されました。 続いて昌樹の妻、ひいちゃんのお母さん。この人は、自分の事をチャイルドママ、略して、チャイママと公表していますから、ここからはチャイママと呼びましょう。そのチャイママは、ひいちゃんが発達障害とわかってから、ひいちゃんのために発達障害について勉強を始めたところ、「もしかして私も・・・?」ってことで病院に行ったら、正真正銘のバリバリの発達障害ADD(多動のない、注意欠如)とわかりました。うーーん、だから嫁に来た時から変だなと思ったんですよ。確かに頭は抜群に良いんだけど家事は『何これ??』ってなもんで、どうなっているんだろうと思いました。時間の配分はめちゃめちゃだし、片付けは出来ないし。さすがに我慢強い私も、ついつい手を出して手伝ってしまって、 「私の仕事だから手を出さないで」って叱られたりして・・・。だってね、朝から洗濯しているのに、干すのは昼になるし・・・(洗たくするのは洗濯機なのに・・・)、我が家の物干し場は午後には日陰になるのに・・・。夕食の支度は食べる時間になって 「行ってきまーす」なんて言って買い物に出かけるし・・・。子どもたちは 「お腹すいた―」って叫ぶし・・・。仕方なしに私が冷蔵庫にあるものでチャチャッと作って食べさせたりして・・・。だってそうしないと子どもたち、寝てしまうもん。チャイママは怒るけど、そうしないと子どもたちが可哀そうだもんね。・・・とにかく変だと思いましたよ。 発達障害だと分かって、なんだそうだったのかって、納得しました。でも、いくら努力して理解しようとしても理解出来ない所もあって、私は「チャイママは宇宙人」と思うことにしました。でも、チャイママの方だって、「周りはみんな宇宙人」と思っていたかも知れませんね。チャイママもしんどかったね。 ※令和3年 5月15日 FB ブログでアップ済み 次は雪。雪は生まれた時から感受性の強い子どもでした。その雪が高校生になって学校に行けなくなりました。雪は小さい頃からピアノが上手で「その才能を伸ばしてやれ」ってチャイママの実家のおじいちゃんがお金を出して下さって、ピアノを習わせて下さったので、ピアノはとても上手でした。学習発表会や、文化祭の合唱などの時は、いつも伴奏を担当していました。全校合唱の時も伴奏は雪でした。そして中学では吹奏楽部でフルートを吹いていました。ピアノもフルートも上手だったので高校には特待生で入学しました。 その高校はこの地域では並ぶもののない吹奏楽で有名な学校で、吹奏楽に憧れて入ってくる生徒の多い高校でした。だから上位争いは激しかったようです。特待生の雪はすぐにAクラスに配置され、目立つ存在になってしまったようでした。努力してもAクラスに入れない上級生たちにとっては、癪に障る存在だったようです。 それで上級生たち数人に集団で、嫌がらせを受けるようになって、すっかり体調を崩してしまいました。可哀そうでしたよ。食べられなくなって、頭痛に悩まされて、よく吐いて、泣いてばかりでした。怖かった時の事を突然思い出すのか、夜中にフラッシュバックが起きたりしたこともありました。PTSDとかいうその影響か、雪にとってとても辛い毎日でした。心療内科で解離性(カイリ性)障害と診断されました。 ADDのチャイママ、解離性(カイリ性)障害の雪、ADHDとASDの光の事や、その上に仕事が見つからない昌樹は、精神的にとても辛くなって、うつ病と言うやっかいな病気にかかってしまいました。何しろ辛い問題を抱えたものばかりで生活しているんだから、まあ、想像してみて下さいよ、大変ですから・・・。まるでハリネズミの家族みたいなもんです。ハグしたくてもとげを刺しあって傷つけあってしまう・・・。ほんとに大変だったよ。私だってC型肝炎なんだから・・・。忘れないでよ、しんどかったよ、やあちゃんばあちゃんは。 でも、しんどい顔はしなかったと思うけどね私。色んなところに相談に行きました。(ひいちゃんの事で良く動いたのは、ひいちゃんパパこと昌樹だったけどね。)家庭に於いては私が居なかったら大変だったよ。だって、ハリネズミの家族だもん。人はみな、「おばあちゃんが扇のかなめだね」と言って下さった。私がいて潤滑油の役目をしていたからみんなで、一緒に暮せたと思っています。 ※令和3年 7月1日 FB ブログでアップ済み 祈ちゃんの事、忘れてはいないよ。この子は元気!。大丈夫。安心。 いつ、そう思ったかと言うと、高校入学当時、あるスーパーに一緒に行った時のこと。ピカピカの一年生(高校生だけど)の祈ちゃん。真新しい制服を着たままスーパーに行きました。すると見るからに同じ高校の上級生らしき女の子にガン飛ばされた。新入生の祈ちゃん、どうしたかと言うと、ガン二倍にして返したよ。相手の女の子は目をそらして去って行った。祈ちゃん強いよ。高校でも、軽音楽部で活躍しました。文化祭では花形だったよね。でもね祈ちゃん、長い人生には色んな事があるからね、そんな時には強くなくても良いんだよ。誰かに泣きごと言っても良いんだよ。でも、祈ちゃんが強かったので、やあちゃんばあちゃんはずいぶん助かりました。頼りになりました。 雪がどうして元気になったかを話しておきます。書こうかどうしようか、随分迷ったけど、あんな貴重な体験はめったにないと思うし、世の中には、そんなこともあるんだと知って、希望を持つ人があるかもしれないから、やっぱり書くことに決心しました。でないとあの貴重な経験が、闇に葬られてしまう。もったいない。 あれは不思議な瞬間だった。私しかそこに居なかったから、私が目撃者です。人に話しても信じてもらえないかもしれないくらい、不思議な出来事でしたが、信じるか信じないかは読む人に任せて、本当の出来事なんで、書いておきます。 その日も雪は辛くて辛くて、朝から泣いてばかりでした。私がいくら慰めても、いくら助言をしても、頭を横に振るばかりで、ほんとにどうしようもなくてお手上げでした。 「雪ちゃん。おばあちゃんはもう、どうしてあげたらいいか分からんわ。もうお手上げだわ」と言いながら私は台所のテーブルに座って一人で泣いていました。めったに泣かない私だけど、どうにもならなくて泣いてしまいました。雪が辛い病気にかかって以来、今まで雪の苦しみを何とかしてやりたいと、心を砕いてきたけど、もう、どうしようもなくて、泣くことしか出来なかったのです。 しばらくテーブルに突っ伏して泣いていたら、「おばあちゃん」と言って雪が台所に入って来ました。それがですねえ、さっきまで涙ぼうぼうで暗―い目をして泣いていた雪が、あれっ?と思うほどの目の輝きをして、私の前に立っているんですよ。 「おばあちゃん。おばあちゃんはさっきまで、変な女の子と話していたでしょう?あれはね、カイリの雪ちゃんって言うんだよ、本物の雪ちゃんは私。私は本物の雪ちゃんだよ。カイリの雪ちゃんとはたった今、バイバイしたからね」って言うんですよ。久し振りに見た元気な雪の目でした。不思議な話でしょう?。書こうか書くまいか迷ったんですよ。でも、私しかその場に居なかったんです。私が言わなければ誰も知らないことになりますからね。雪本人も何があったか分かっていないような気がします。本当の話だという証拠に、それ以来、雪は二度とフラッシュバックにもならなかったし、パニックも起きなかった。そして、ごく普通の女の子に戻って、高校も無事卒業して、パソコンを習って、全てのパソコンの技能をマスターして、今は金融機関でバリバリ働いています。その上、バンドもやっていて、得意のキーボードで活躍しています。雪が辛かった頃の事を知っている人は、みんな驚いています。目が活きているんです。 ※令和3年 11月1日 FB ブログでアップ済み 後日、雪があの時の事を話してくれたことによると、 「底なし沼に沈んでしまってね、何日も何日も、もがけばもがくほど沈んでいって・・・。息は苦しいし、死んだ方が楽になるような気がした」 「するとね、目の前をスーっと光のようなものが通ったんだよ。思わず手を伸ばしたら、まるで手を握られたように、上にグイっと引っ張り上げられたような気がしたんよ。そうしたら底なし沼の上に顔が出た。思いっきり息を吸い込んだよ、気持ち良かった――。なんかそんな感じだった」って・・・。 不思議な話なので、人にはほとんど話していないけど、ホントの話ですよ。信じてくれそうな信仰の友にだけ話しました。彼女たちは皆、「神様が助けて下さったのねえ」と言いました。 この出来事を通して私は絶体絶命の時にも、神様は必ず助けて下さると信じることが出来るようになりました。 でもそれには一つの条件が必要なことも分かっています。それは聖書のみことばです。私は雪が病気になった時、毎日毎日「雪を助けて下さい」と祈っていました。もちろん聖書も毎日読んでいました。ある日聖書のみことばの中から “木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。”という、ヨブ記のみことばが、胸にグーンと響いたのです。神様が「大丈夫。たとい切られても、又芽を出すよ。よみがえるよ」と応えて下さったと思いました。それでも、雪の体調が悪いと、内心不安で不安でたまらなくなって、神様の約束の言葉を“やっぱり駄目なんじゃないか”なんて思ってしまったりしました。でも神様は真実な方でした。みことばの通りに、切られても芽を出し、若枝を萌えさせて下さったのです。 だから、みことばを信じることが大切なんです。だから、聖書を読むことが大切なんです。聖書を読んで、みことばを聞き取って、それを信じ切って、祈って待つ事。勿論、自分が出来る事は、精いっぱい努力する事が大切です。神様からのみ言葉を信じきる事。私にとって、この経験はとても良い経験になりました。 ※令和4年 8月6日 FB ブログでアップ済み 〝神の恵みによって,私は今の私になりました“(第一コリント十五の十六) さあ、これからですよ。今、私八十歳。そろそろ最後の大仕事が待っていますよ。作家の三浦綾子さんが言われたように、「死ぬという最後の大仕事」、これが問題。特に私にはあの約束がありますからね。祐樹が生まれた時、私が死にそうになった時、神様にお願いしたあの約束。 「神様。子どもたちが成人するまで、私を生かしておいて下さい。子どもたちが成人して私の役目が終わったら、いつ召して下さってもかまいません。そしてその時、狂いまわるほどの苦しい最後になってもかまいません。」って、お願いしたんだよね、忘れてはいませんよ。神様は私の願いを聞いて下さって、私を元気にして下さって、生きることが出来るようにして下さった。しかも、私は、「子どもたちが成人するまで」と、お願いしたのに、子どもたちどころか孫たちがみんな成人するまで生かして下さいました。 この話をひいちゃんにしたら、 「おばあちゃん、神様の大サービスの付録の人生だね」と言ったが、ほんと大サービスの付録の人生を頂いた。あとはあの約束。どんな苦しい最後が待っているのか、あの時は子どもたちのために、生きたいという一心でそんなお願いをしたけれど、その日が近づくと、やっぱり内心怖いよ。苦しいのは嫌だよ。 皆さん。もし私が死の直前、ものすごく苦しんだなら、 「神様信じているのに、あの苦しみ方は何だ。神は愛だなんて嘘じゃないか」なんて思わないでくださいね。そうじゃなくて、神様があの時の願いを聞いて下さって、幼い二人の子を残してその時死なないように、私に命を与えて下さったんだと分かって下さい。もし、安泰に死を迎えたら、なんと神様は愛の方だと知って下さい。 私はどちらでもいいです。何しろ私は天国に行くんですから。 私の罪はすべてイエス様の十字架によって処分されています。 (後半) 私が死んだ時、みんなは悲しみ泣いていた。 笑っていたのは、私だけ。 (作者不明) 最終記帳 二〇一九年十一月五日 河上八千代 八十歳 |